君と見つける、新しい景色
しおりの、ない日々

第一話  平積みの崩れる音

猫山 タスク 2026/07/17
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 朝倉栞(あさくら・しおり)二十一歳、書店員一年目。その日の最大の悩みは、平積みの角度だった。「栞ちゃん、それ傾いてる」 背後からの声に、栞は飛び上がった。腕の中の新刊——今月の話題作、初版三十冊——がぐらりと揺れる。「わっ、わっ、わ」「落ち着いて。息して」 主任の宮辺(みやべ)さんが、栞の腕から二冊だけ抜き取った。それだけで山はぴたりと安定した。魔法みたいだった。「重心。上に行くほど軽くしないと崩れる」 栞はメモ帳を取り出した。入社1か月で2冊目のメモ帳だ。書いたことを見返した回数は、、、あまり多くない。 スマホが震えた。母からのLINE画像だった。窓辺で香箱座りをしている、ロシアンブルーのようなグレーの猫。 コレット。三歳、メス。去年の春から朝倉家で暮らしている。保護猫だった。譲渡会で、栞の指を一度だけぺろりと舐めて、それで決まった。 普段はコレちゃんと呼んでいる。 栞:『かわいい 帰ったら遊ぶ』 午後三時の駅前書店は、夏休みのせいで平日にしては人が多かった。ページをめくる音、空調の低い唸り、遠くのレジの電子音。栞はこの時間の音が好きだった。 あとから何度も思い返すことになる。本当に、どうしようもなく平和だった。    ◇ 最初に気づいたのは、耳ではなく、足の裏だった。 床が、細かく震えた。(トラック?) 店の前の通りは大型車がよく通る。地響きは日常茶飯事だ。栞は手を止めなかった。三十冊の山の、二十六冊目を積もうとしていた。 だが、震えは消えなかった。むしろ大きくなり、下から突き上げる衝撃に変わって、栞の膝がかくんと折れた。「え」 声が出た。それだけだった。天井から吊るされたPOPが、一斉に同じ方向へ流れた。その光景が、やけにゆっくり見えた。 そして、音が来た。地面の下を巨大な何かが走っていくような、地鳴り。栞の内臓が、その音に共振した。「地震!」 誰かが叫んだ。宮辺さんだ。「頭を守って! 棚から離れて!」 栞は動けなかった。動けなかったというより、体が「動く」という選択肢を忘れていた。目の前で、さっき積んだばかりの三十冊の山が、まるで巨大な手で払われたように吹き飛んだ。 本が、飛んだ。 本というのは、こんなに飛ぶものなのか。栞はぼんやりとそう思った。文庫が、単行本が、雑誌が、宙を舞って、床を滑って、栞の足元にぶつかった。 床が船になっていた。栞は四つん這いになった。つかまるものが、全部揺れていた。 右側の棚が、ゆっくりと傾いた。(あ、あれ倒れる) 冷静にそう思った自分に、あとで栞は驚くことになる。文芸書の棚——高さ二メートル——が、こちらに倒れてくる。 体が動かない。 腕をつかまれた。「バカ!」 宮辺さんだった。ものすごい力で引っ張られ、栞は床を転がった。直後、背後で轟音がした。棚が倒れ、床に叩きつけられ、中身の本が滝のように流れ出した。 栞がさっきまでいた場所は、本の山に埋まっていた。「レジ台の下!」 宮辺さんが栞の背中を押した。栞は這った。生まれて初めて、必死に、這った。レジカウンターの下に転がり込むと、宮辺さんも続いて入ってきた。 その狭い空間で、栞は初めて、自分の呼吸の音を聞いた。 ひゅっ、ひゅっ、と喉が鳴っていた。 揺れは、まだ続いていた。 そして栞の頭に、最初に浮かんだのは、本のことでも、家のことでもなかった。(コレちゃん!)    ◇ あとで発表を見て、栞は目を疑うことになる。主要動、およそ百二十秒。 二分。たった二分。その間に、栞は三回、死を覚悟した。 揺れが小さくなると、店内は静まり返っていた。空調も照明も止まり、非常灯の緑色だけが本の海を照らしていた。「……栞ちゃん、無事?」「は、はい。たぶん」「怪我は」「ない、です」 声が震えていた。自分の声じゃないみたいだった。 宮辺さんがレジ台の下から出た。栞も続いた。そして、店内を見て、言葉を失った。 書店ではなかった。 本の墓場だった。 棚という棚が倒れ、その中身が床を埋め尽くしていた。膝まで本が積もっている場所もあった。天井の一部が剥がれ落ち、白い粉が舞っていた。「お客様! ご無事ですか! 声を出せる方は返事を!」 宮辺さんの声が響いた。あちこちから返事があった。震えた声、泣きそうな声。それでも、返事があった。栞は初めて、まともに息を吸えた気がした。    ◇ 救急車は、来られなかった。 児童書コーナーで、小学生の男の子が本の山から掘り出された。額を切っていたが、意識ははっきりしていた。宮辺さんが救急に電話をかけた。何度かけても、繋がらなかった。「栞ちゃん、救急箱」「あ、はい!」 栞は走った。走って、本につまずいて、盛大に転んだ。「走らない! 床が見えてないんだから!」 その通りだった。バックヤードの救急箱は棚から落ち、中身がぶちまけられていた。栞はしゃがみ込み、ガーゼをかき集めた。 そのとき、手が震えているのに気づいた。止めようとしても、止まらない。怖い、という感覚が、遅れてやってきていた。揺れている間は、その暇もなかった。    ◇ 午後五時。店の前の歩道に、スタッフと客が集まっていた。建物の中は危険だと宮辺さんが判断した。五分に一度は揺れる。そのたびに、誰かが小さく悲鳴を上げた。 栞はスマートフォンを握りしめていた。アンテナは立っている。だが繋がらない。母にも、父にも、兄にも。「おかけになった電話は、大変混み合っており——」 二十回目で、栞はようやくあきらめた。「電話は無理。みんな同じこと考えてるから。LINEは?」 宮辺さんに言われて、栞はLINEを開いた。家族のグループ。 母:『みんな無事?』 母:『お父さん会社で無事だって』 兄:『こっちも大丈夫。栞は?』 母:『栞、返事して』 母:『栞!!!』 兄:『コレットが見つからない』 栞の指が止まった。 兄:『家中探してる』 三十分前のメッセージだった。栞は電話をかけ続けていて、気づいていなかった。「……あ、あー! すみません、私、ずっと電話ばっかり」「よくあるやつ。落ち着いて、まず無事だって送る」 栞:『無事です お店にいます 怪我ない』 栞:『コレちゃんは???』 既読が、三つ、一瞬でついた。 母:『よかった』 母:『よかった』 母:『よかった』 兄:『まだ探してる』 同じ言葉が三回並んでいた。栞は、その画面を見て、初めて泣いた。泣きながら、続きを打った。 栞:『押し入れの奥 毛布の下 あそこ好きだから』 三分後。 兄:『いた』 兄:『毛布の下でめちゃくちゃ怒ってる』 栞は、その場にしゃがみ込んだ。「怒れるなら元気だ」 宮辺さんが、備蓄のペットボトルを差し出した。「電話がダメでも、171があるんだけどね」「171?」「災害用伝言ダイヤル。知らない?」「……名前だけは」 学校で習った気がする。ずっと昔に。「まあLINEが通ったならいいや。あれ災害に強いから。電話は回線を占有するけど、メッセージはデータをちょっと送るだけだから」 栞はメモ帳を取り出した。今度は、ちゃんと書いた。 『電話× LINE○ 171』 書きながら、思った。私は、なんにも知らない。    ◇ 午後六時。電車は全線が止まっていた。改札の前には何百人が集まり、降りたシャッターを見つめていた。 栞の家は、ここから約十二キロ。電車で三十分。歩けば三時間。「歩くの、やめたほうがいい。栞ちゃん、その靴で?」 栞は自分の足元を見た。パンプス。ヒール五センチ。「……あ」「ガラスの破片、割れた看板、めくれた歩道。暗くなってから、その靴で十二キロは無理。本当は店に残るのが一番安全なんだけどね。ここ、耐震やってるから。……でも中には入れないし」 栞は、そのとき、あることを思い出した。「宮辺さん」「ん?」「私、スニーカー、あります」「え?」「ロッカーに。この前、通勤用に買って、そのまま忘れてて」 宮辺さんが、栞の顔をまじまじと見た。それから、笑った。この日、初めての笑顔だった。「栞ちゃん、それ、大手柄」    ◇ 結局、栞は歩いて帰ることになった。同じ方向に帰る人が、駅前で十人ほどの集団を作っていた。栞もそこに混ざった。「一人で歩かない。これだけは守って」 宮辺さんが、栞の肩を叩いた。「宮辺さんは?」「私は店。誰かが残らないと。……栞ちゃん、今日、あなたよくやったよ。固まったけど、そのあと動いた。それでいい。最初はみんなそう」 栞は、何か言おうとして、言葉が出なかった。「帰ったら、寝る前にスマホの充電。それから、明日着る服を枕元に置く」「なんで、服……」「夜中に余震が来て、逃げるときに、パジャマだと死ぬから」 さらりと言われた。栞は、その重さを、少し遅れて理解した。「あと、猫。キャリー、どこにある?」 栞は、答えられなかった。物置の、どこか。買ったのは病院に行くときだけ。年に一、二回。普段は——どこだっけ。「……分かんないです」「今日、探しといたほうがいい」    ◇ 歩き始めて、栞はすぐに宮辺さんの言葉の意味を知った。 道が、道じゃなかった。歩道のブロックが波打ち、マンホールが五十センチ飛び出し、剥がれたタイルが一面に散乱していた。(パンプスだったら、十歩で終わってた) 街は暗かった。信号も街灯もコンビニも自販機も、全部消えていた。空にだけ、いつもより多い星が見えた。 ライトをつけようとして、栞は手を止めた。バッテリー、四十パーセント。地図にも連絡にも使う。(節約しなきゃ) 栞は、初めて、そういう計算をした。    ◇ 午後九時四十分。三時間半。足はもう感覚がなかった。 途中で寄ったコンビニは、どこも真っ暗で、レジは現金のみ、水は売り切れ。栞の財布の中身は三千円だった。(キャッシュレス派、詰んだ) 崩れたブロック塀。傾いた電柱。ガラスが全部落ちたビル。その隣の、まったく無傷の建物。その差が何なのか、栞には分からなかった。 そして今、栞は自分の家を見上げていた。 木造二階建て。築十二年。 立っていた。 ちゃんと、立っていた。「栞!」 玄関が開いて、母が飛び出してきた。抱きつかれて、栞はよろけた。「ばか! 連絡くらい!」「したよ! LINEで!」「三時間前でしょ!」 母は泣いていた。栞も、また泣いた。 その足元を、グレーの小さな影がすり抜けた。「コレちゃん!」 栞がしゃがむと、コレットは栞の足に頭をこすりつけた。ごろごろと喉が鳴る。いつもと、まったく同じだった。 栞は、その背中に顔を埋めた。この匂いだけが、今日、何も変わっていなかった。    ◇ 家の中は、ひどい有様だった。食器棚が倒れ、冷蔵庫が一メートル動き、テレビは台から落ちて画面が割れていた。 二階の栞の部屋では、本棚が倒れ、ベッドの上に本が山積みになっていた。 もし、寝ていたら。「栞、あんた、本棚固定してって、何回言った?」 母が背後で言った。「……ごめん」「まあ、いいわ。生きてるから」 父はリビングで壁を見ていた。柱と壁の間に、指が入るほどの隙間ができている。「これ、まずいな。筋交いが入ってる壁だ。ここが割れてるってことは、家が一回、大きくねじれた」 父は建設会社の総務だ。現場の人間ではないが、多少の知識はあった。「この家は耐震基準を満たしてる。だから潰れなかった。でも『潰れなかった』と『無事』は違う。市が応急危険度判定ってのをやる。赤紙か、黄色か、緑か。それが貼られるまで、素人判断で住むのは怖い」 そのとき、栞の足元で、コレットが鳴いた。 全員が、黙った。    ◇「猫、どうする」 兄が言った。朝倉悠人(ゆうと)、二十五歳、IT企業勤務。今日は在宅で家にいた。「連れてくに決まってるでしょ。家、住めないんでしょ? じゃあコレットも住めないじゃん」「そうだけど、避難所って猫OKなのか?」「……え? だって、家族だよ?」「それは、うちの話な」 兄がスマホを操作した。電波は細いが、辛うじて繋がる。「市のサイト……重い。……あ、出た。『ペット同行避難』。……やってる」「よかった!」「待て。まだ読んでる」 兄の指が止まった。眉が寄る。「……『同行避難とは、ペットとともに避難所まで避難する行動を指すもので、避難所内で飼い主とペットが同室で過ごすことを意味するものではありません』」「……え?」「『ペットは所定の飼育スペースにて、飼い主の責任において飼育していただきます』」 沈黙が落ちた。「……どういうこと?」「一緒に行けるけど、一緒には寝られない、ってことだ」 栞は、コレットを見た。コレットは、栞の膝の上で丸くなり、目を細めていた。「……そんなの」「猫が嫌いな人もいる。アレルギーの人もいる。体育館に何百人も詰め込むんだ。当たり前だろ」 兄の言い方は冷たかったが、言っていることは正しかった。栞には、それが分かってしまった。「キャリー」 母が言った。「キャリー、どこ?」 四人で、物置をひっくり返した。 出てきたのは、二十分後だった。プラスチック製の、小さめのキャリーバッグ。病院に行くとき用に買った、いちばん安いやつ。 栞は、それを見て、青くなった。「これ……去年のサイズだ」 コレットは、保護されたとき、痩せていた。一年で、しっかり大きくなった。「入る?」「入る、けど」 入った。ぎりぎり入った。だが、中でコレットは身動きが取れない。方向転換もできない。「これで何日も? 無理だよ!」「今から買いに行けるか? 店、全部閉まってるぞ」    ◇ 午後十一時。朝倉家の四人と、一匹は、近所の小学校へ歩いていた。 栞のリュックの中身は、慌ててかき集めたもの——充電器、モバイルバッテリー、タオル、着替え、そして、なぜか本が三冊。「なんで本?」 兄が呆れた。「持ってきちゃった」「お前な」 でも、栞は少しだけ思っていた。避難所には、たぶん、退屈がある。恐怖と、退屈が。そういうとき、本は、いる。 キャリーは、栞が持った。 中で、コレットが鳴いていた。ずっと鳴いていた。低く、長く、途切れない。栞が生まれて初めて聞く声だった。「コレちゃん、大丈夫だよ。大丈夫」 声をかけても、鳴き止まなかった。 猫の重さは三・八キロ。キャリーと合わせて五キロ弱。栞の腕は、五分で限界を迎えた。「持つよ」「いい。私が持つ」 理由は自分でも分からなかった。ただ、この子を運ぶのは私の仕事だ、と思った。 結局、三回、兄に替わってもらった。    ◇ 小学校の体育館には、灯りがついていた。自家発電なのだろう。暗い街の中で、そこだけがぽつんと浮かんで見えた。 入口で名簿に記入しながら、栞は初めて、この体育館が「指定避難所」だと知った。三年前に市から届いたハザードマップに、書いてあったはずだ。栞が「あとで見る」と言って冷蔵庫に貼り、そのまま忘れたやつに。(見とけよ、私) 過去の自分に言いたかった。「あの、ペットは——」 母が受付の人に聞いた。「動物は渡り廊下です」 受付の女性が答えた。疲れた声だった。この人も被災者なのだ。「体育館と校舎をつなぐところです。屋根はあります。ケージのまま、飼い主さんの責任でお願いします。えさと水はご持参ください。備蓄はありません」 栞は、その方向を見た。暗かった。灯りがない。「あの、私、一緒に、そこにいちゃダメですか」 母が「栞」と小さく言った。受付の女性は、少しだけ表情を緩めた。「日中は大丈夫です。でも夜は戻ってください。渡り廊下、風が通るので。人が寝ると、体を壊します」    ◇ 渡り廊下には、先客がいた。犬が三頭、猫が二匹。飼い主らしき人が二人、しゃがみ込んで世話をしていた。「あ、猫ちゃん?」 六十代くらいの女性が声をかけてきた。「はい。コレットっていいます」「うちのはミケ。もう十四歳。……大変よねえ」 栞はキャリーを、一番端に置いた。 コレットは、まだ鳴いていた。 栞は、キャリーの網目に指を入れた。コレットが、その指を舐めた。ざらざらした舌。譲渡会のときと、同じだった。 その瞬間、栞の目から涙がこぼれた。今日、三回目だった。「ごめん、ごめんね、コレちゃん。ごめん」 何に謝っているのか、自分でも分からなかった。いや、分かっていた。 私は、この子を家族だと言いながら、この子の避難のことを一度も考えたことがなかった。キャリーのサイズも。餌の備蓄も。避難所のルールも。何ひとつ。 押し入れの奥の毛布の下。あそこが好きだと知っていたのに。それが「隠れ場所」だということを、私は一度も、考えなかった。    ◇ 体育館の床は硬かった。毛布が一枚配られた。それだけだった。 栞は、三十分に一度、渡り廊下に行った。「行きすぎ」「うるさい」 四回目に行ったとき、コレットは鳴き止んでいた。 キャリーの奥で、体を丸めて、じっとしていた。目を開けていた。瞬きもせずに、暗闇を見ていた。 栞は、その様子を見て、鳴いているときより怖くなった。「コレちゃん」 反応がなかった。「コレちゃん!」 耳だけが、ぴくりと動いた。「……ストレスよ」 ミケの飼い主さんが言った。「猫は環境が変わるのがいちばんダメなの。うちのも初日はそう。……タオル。家の匂いのついたやつ、かけてあげて。見えないほうが落ち着く」 栞はリュックを漁った。タオルはあった。慌てて洗濯物の山から掴んできたやつだ。 匂いを嗅ぐ。柔軟剤の匂い。家の匂いだった。 それをキャリーにかけると、コレットの姿が見えなくなった。 しばらくして、中から、小さく、ごろごろという音が聞こえた。 栞は、その場に座り込んだ。    ◇ その夜、栞は眠れなかった。 硬い床。誰かのいびき。赤ちゃんの泣き声。ときどき来る余震。そして頭の中で回り続ける、飛んでいく本、倒れる棚、腕を引かれた痛み、暗い街、母の泣き顔、暗い渡り廊下でこちらを見ないコレちゃんの目。 私は、なにも知らなかった。 栞は、リュックからメモ帳を取り出した。ペンライトの灯りで、白いページを照らす。 そして、書いた。 『知らなかったこと』 その下に、箇条書きで並べていく。 ・電話は繋がらない。LINEは通る。171っていうのがあるらしい ・パンプスでは帰れない。スニーカー必須 ・現金がないと詰む ・スマホの充電は命 ・避難袋は五年放置すると全部ダメになる ・本棚は倒れる。私のベッドの上に ・家は立ってても住めないことがある ・ハザードマップは、冷蔵庫に貼るものじゃない。見るものだ ペンが、そこで止まった。 栞は、少し考えて、新しい行を書いた。 『コレちゃんのこと』 ・「同行避難」=一緒に逃げられる。「同室」じゃない ・キャリーはサイズが変わる。年に一回は確認する ・猫の餌と水は、誰も用意してくれない ・家の匂いのタオルが要る ・押し入れの奥に隠れる。だから、あそこを最初に見る ・この子は、自分で逃げられない 最後の一行を書いて、栞はペンを置いた。 この子は、自分で逃げられない。 当たり前すぎて、一度も考えたことがなかった。コレちゃんはドアを開けられない。水を用意できない。「同行避難」という言葉を知らない。地震が来ることも知らない。 全部、私がやるしかない。私が知らなければ、この子は何も持たずに、暗い渡り廊下に置かれる。今日みたいに。 栞は、もう一行、書き足した。 『次は、知ってる側になる』 書いてから、少し恥ずかしくなった。柄じゃない。私は、平積み一つまともに積めない、ドジで早とちりの、書店員一年目だ。 でも。 栞は、メモ帳を閉じて、胸に抱えた。 でも、今日、私は生きてる。コレちゃんも生きてる。 それは、宮辺さんが腕を引いてくれたからで、スニーカーをロッカーに忘れてたからで、この家が耐震基準を満たしていたからで、コレちゃんが押し入れの奥の毛布の下という「安全な場所」を、自分で見つけていたからだ。 全部、誰かが、いつか、考えてくれていたことだ。 猫でさえ、自分の避難場所を知っていた。 飼い主の私だけが、何も知らなかった。 私も、考える側になりたい。 誰かの腕を、引ける側に。    ◇ 体育館の高い窓から、白い光が差し込んできた。 朝が来ていた。 栞は、いつの間にか眠っていたらしい。毛布が、肩にかけ直されていた。母がやってくれたのだろう。 起き上がると、体中が痛かった。 最初にしたのは、渡り廊下へ走ることだった。 タオルをめくると、コレットが顔を上げた。目が合った。昨日の、何も見ていない目ではなかった。「にゃ」 小さく、鳴いた。栞は、その場にへたり込んだ。安堵で膝から力が抜けた。「おはよ、コレちゃん」 網目から指を入れる。コレちゃんが、また舐めた。 栞は立ち上がった。 そして、気づいた。(あれ、私、なにすればいいんだろ) いや——違う。 栞は、リュックの中を思い出した。昨日、慌ててかき集めたもの。充電器。タオル。着替え。本が三冊。 猫の餌が、一食分も入っていない。 コレットが、栞を見上げていた。 朝ごはんの時間だった。いつもなら、とっくに食べ終わっている時間だった。「……あー!」 ドジで、早とちりで、なんにも知らない朝倉栞、二十一歳。 その、長い長い一日目が終わり、もっと長い二日目が、始まる。(第二話につづく)
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