君と見つける、新しい景色
しおりの、ない日々

第二話 あの子が指を出した日

猫山 タスク 2026/07/19
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 あたしは、駐車場の隅の、室外機の下で生まれた。 最初の記憶は、匂いと、熱と、震動だ。母の腹の匂い。室外機が吐き出す生ぬるい風。ときどき地面が揺れて、人間の足が通り過ぎる。あの頃は、揺れは怖くなかった。揺れは、ただの日常だった。 母は、あたしたちに何も教えなかった。教える前に、いなくなった。 だから全部、自分で覚えた。 人間には、二種類いる。目を合わせてはいけない人間と、目を合わせるとご飯をくれる人間。見分け方は、歩き方でわかる。まっすぐ早く歩く人間は、こちらを見ない。ゆっくり、少し猫背で歩く人間は、こちらを探している。後者に会ったら、鳴く。少し高い声で、少し細く。それが決まりだった。 媚びるのは、恥ずかしいことじゃない。生きることだ。 仲間とは、よく喧嘩した。魚屋の裏のキジトラ。あいつとは、三回やって、二回勝ったが、負けたその一回で左耳の先を少し持っていかれた。今でも触ると、そこだけ形が違う。 冬は、寒かった。
 夜になると、戻ってくる車の下が一番暖かかった。
    ◇ パートナーができたのは、二度目の冬が終わって、少し暖かくなってくる頃だった。 白と灰の、大きな雄。あいつはケンカが強かった。だけど、優しかった。あたしが食べ終わるまで、待ってくれた。そういう猫は、あの場所には、あまりいなかった。 子どもは、三匹だった。 最初の二匹が白と灰だった、三匹目があたしと同じ灰色だった。 一匹目は、よく鳴く子だった。二匹目は、いちばん食いしん坊で、いつも先に飲んだ。三匹目は、小さくて、静かで、いつもあたしのお腹の下から出てこなかった。 あの三匹を、あたしは、駐車場の奥の茂みで育てた。 それが、あたしの人生で、いちばん忙しくて、いちばん、よかった日々だ。    ◇ 人間が来たのは、三匹が歩き始めた頃だった。 ケージというものを持った人間が、何人も来た。あたしは三匹を茂みの奥に押し込んで、前に立った。 毛を逆立てて、唸った。何度も、何度も、唸った。 だけど、その人間の目には、優しさがあった。 なにか、わからないけど、導かれるままにケージに入れられた。 四つのケージに、バラバラに。あの子たちが鳴いているのが聞こえた。あたしも鳴いた。ずっと鳴いた。喉が潰れるまで鳴いた。 それでも、車は走り出した。    ◇ 行った先は、暖かかった。 ご飯が、毎日出た。決まった時間に、決まったものが。水も、きれいだった。ケージは狭かったけど、寒くなかった。 あの子たちは、隣のケージにいた。ケージ越しに見えた。あたしは毎日、そっちを見ていた。 人間たちは、優しかった。あたしの欠けた左耳を見て、何か言っていた。それから、あたしのお腹を触って、また何か言った。何度も、何度も撫でてくれた。心地よかった。自然と人間に心を開いていった。 あとで分かったことがある。あの人間たちは、猫たちを助ける仕事というものをしているらしい。 あの駐車場で、三度目の冬を越せたかどうか。 あたしは、たぶん、越せた。あたしは強いから。 でも、あの子たちは,,, あの、いちばん小さい子は。    ◇ あたしの大切な三匹の子たちは、順番にいなくなった。 最初にいなくなったのは、よく鳴く子だった。その子は、いつもの人間に抱かれながら、あたしのほうを見て、一言鳴いていなくなった。あたしは、何も言えなかった。 声が、出なかった。 次にいなくなったのは、食いしん坊。その子は、あたしを見て、飛びつく勢いでケージに体当たりした。
 あたしは、2回鳴いた。その子も、2回鳴いた。そして、いなくなった。
 最後に、いちばん小さい子がいなくなった。 その子は、ケージの隅で、ずっと震えていた。連れて行かれるとき、初めて、大きな声で鳴いた。あたしを呼んだ。あたしと同じグレーの小さな子。 あたしは、立ち上がって、ガラスに前足をついた。 それだけしか、できなかった。一番心配だった。できれば、ずっと一緒にいてあげたかった。    ◇ そして、あたしだけが、残った。 人間たちは、あたしを何度も、部屋に連れて行った。たくさんの人間が座っている部屋。ケージが並んでいる部屋。人間が、あたしを見に来る部屋。 あたしは、鳴いた。 昔と同じように。少し高い声で、少し細く。 でも、誰も、あたしを見なかった。 人間たちは、みんな、小さい猫のほうへ行った。目が大きくて、鳴き声が高くて、まだ何も知らない、小さい猫のほうへ。 あたしは、もう若くなかった。左耳が欠けていた。子供も産んだ。 何度も、部屋に行った。何度も、戻ってきた。 そのうち、あたしは、鳴くのをやめた。 窓の外を見るようになった。ケージから見える、四角い空。雲が流れていた。 あの子たちは、今、どこにいるんだろう。 ご飯は、足りているだろうか。 あの、いちばん小さい子。あの子は、ちゃんと、誰かのお腹の下に、もぐれているだろうか。    ◇ その日も、あたしは窓を見ていた。 部屋は、うるさかった。人間がたくさんいた。犬も、いた。子どもが走り回っていた。 どうせ、誰も来ない。 あたしは、いつものように、外を見ていた。 そのとき、ケージの前で、人間が止まった気配がした。 あたしは、振り向かなかった。もう、ここで、暮らすと決めていた。 しゃがんだ? そんな気がした。息の音が少しだけ聞こえてきたからだ。 その人間は、動かなかった。何を見てるのだろう。あたしのしっぽ。お尻。後ろ足。頭。 変な人間だ、とあたしは思った。 普通の人間は、しゃがんだら、すぐに何か言う。「かわいい」とか。「おいで」とか。声を高くして、指を鳴らして、こっちの気を引こうとする。 その人間は、何も言わなかった。ずっと、あたしを、見ている気配、だけがしていた。 ただ、しゃがんで。 気になった。今までで一番、気になった。 あたしは、その人間の顔を見たくなって、後ろを見た。 「!!」目が、合った。 若い、雌の人間だった。目が、丸かった。髪がフワフワだった。そして、目がうるうるしていた。 なんで? なんであんたが、泣きそうなの? その人間は、口を開いて、閉じて、また開いた。「……何歳、なんですか」 声が、小さかった。 隣の人間に聞いたが、声が届いていなかった。 隣にいた人間(ここの人間だ、あたしのご飯をくれる)が、何かを言った。長い説明だった。あたしのことだと思う。耳のこと。年のこと。三匹の子たちのこと。 その人間は、聞いていた。 なぜか、目をうるうるさせながら、ずっと、聞いていた。 それから、こう言った。「じゃあ、この子……子どもたちが行くの、ぜんぶ、見てたんですか」 声が、震えていた。 あたしは、その人間を、じっと見た。    ◇ 変な人間だ、と思った。 この部屋には、たくさんの人間が来る。みんな「かわいい」と言う。みんな、小さい猫を見る。みんな、あたしを通り過ぎる。 でも、この人間は、通り過ぎなかった。 しばらくして、その人間は、そっと、指をケージの隙間から、あたしの、前に出してきた。 細い指だった。爪が短くて、少しだけ変わった匂いがした。後から知ったが、それは、インクという匂いらしい。 その指を、あたしは、見ていた。 人間の指を舐めたことは、ある。生きるために。ご飯をくれる人間に、そうやって、媚びた。何度も、何度も。 それが決まりだった。 でも。 その指は、何もくれない。 あたしを、じっと見ていた。 丸い目で、今にも涙が出てきそうな目で。あたしを見ていた。 変なの。 あたしなんか。 左耳が欠けてて、年も食ってて、子どもを三匹取られて、誰にも選ばれなかった、あたしなんか。 あたしは、鼻を近づけた。 匂いがした。紙の匂いと、インクの匂い。指にその匂いは強く付いていた。それから、少しだけ、人間の匂い。 不思議な感覚だった。 あたしは、無意識に。 舐めた。 ぺろり、と。 一回だけ。    ◇ 自分でも、驚いた。 いつもなら、ご飯をもらうために、舐めた。 この人間は、何もしてくれない。それが、わかっていたのに。 舐めた。 その人間は、少し笑った。 それから、何かを言った。一緒に来ていた大きな人間に。それから、隣の人間に。 そして、笑顔が何倍にもなった。 あたしを見た。そして、少ししてから、肩が、揺れた。 泣いていた。 あたしは、思った。 この人間、心配だ。    ◇ それから、何度か、あたしに、会いに来た。 ご飯をくれる人間と、何かを話して、いつも帰っていった。 ある日、丸い目の人間が来て。ケージに入れられた。 あの子たちが、そうしたあの日のように。あたしも、ケージに入った。 ケージの中で、あたしは鳴かなかった。 窓の外を、景色が流れていった。 あの子たちも、この流れる景色を、見たんだ。 そう、思ったとたん、少しだけ声が出た。    ◇ 付いた名前は、コレット。 あの、指を出した人間が付けた。 意味はわからない。だけど、なぜか、昔から呼ばれていた、気がして、心地よかった。    ◇ それから、一年が過ぎた。 家には、四人の人間がいる。 順番は、あたしの中で、はっきり決まっていた。 一番。栞。 あたしの、栞だ。    ◇ 栞は、心配な子だ。 まず、朝、必ず何かにぶつかる。ドアの枠。テーブルの角。あたしの尻尾。それから「痛っ」と言う。毎朝だ。一年間、毎朝。 次に、目覚ましが鳴ってから起きるまでに、何度も、目覚ましが鳴る。あたしはその間、ずっと枕元で起きるのを待っている。起きなかった日は、顔を踏む。それでも起きない日は、耳を噛む。ごめん。 それから、家を出てから一回帰ってくる。 鍵。定期。傘。弁当。だいたい、玄関を出て、十秒くらいで戻ってくる。あたしはその時間を知っている。だから、栞が出て行っても、しばらく玄関で待つことにしてる。 そして、いつも、案の定、戻ってくる。「コレちゃん、待っててくれたの?」 まぁ、半分当たり、半分はずれ。 あたしは、これを、決まりとして過ごしている。 でも、栞は、あたしを抱き上げて、頬をこすりつける。これも、決まりごと。 世話がやける。    ◇ 栞は、いつも、遊んでくれる。 あの日、指を舐めた、あの日から。栞を忘れたことはない。 パパは強い。ママは賢い。お兄ちゃんは、たぶん、あたしより世の中を知っている。 でも、栞は。 あの子は、道で転ぶし、階段を踏み外す。熱いものを触って「熱っ!」と言う。 だから、あたしは見張っている。 あの子が寝ているとき、あたしは枕元にいる。 あの子が泣いているとき、あたしは膝に乗る。 あの子が笑っているとき、あたしは、少し離れて、様子を見ている。嬉しいから。 栞は、あたしの保護対象なのだ。 子どもみたいなものだ。 三匹を、あたしは守れなかったから。 でも、栞は、守る。 あたしの、大切な存在。    ◇ 二番。ママ。 ママは、ご飯をくれる。 これは、大きい。とても大きい。 あたしのご飯は、決まっている。あの、緑色の袋の、あれ。あれしか食べない。他のは、匂いを嗅いで、終わり。ママは一度、青い袋のを買ってきたことがある。あたしは、一度匂いを嗅いで、三日間、食べなかった。ママは、それ以来、緑の袋しか買わない。 ママは、あたしのことを、いちばんよく見ている。 あたしがトイレに行った回数。あたしが水を飲んだ回数。あたしが吐いた日。全部、覚えている。 このママは、賢い。 だから二番だ。栞の次に、大切だ。 栞にもご飯を作ってるから、もっと凄い。    ◇ 三番。パパ。 パパは、静かだ。 朝、暗いうちに出て行って、暗くなってから帰ってくる。仕事というらしい。 帰ってくると、椅子に座って、しばらく動かない。 あたしは、その膝に乗る。 パパは、何も言わない。ただ、あたしの背中を、ゆっくり撫でる。手が大きくて、少しかさかさしている。 この人間は、たぶん、疲れている。 だから、あたしが乗って癒してあげる。 乗っている間、パパは、少しだけ息が深くなる。それが分かるから、あたしは動かない。眠くても、動かない。 ときどき、パパは、ぽつりと何か言う。あたしには分からない言葉だけど。でも、嬉しくなる言葉だ。 それが、あたしの決まりごとだ。    ◇ 四番。お兄ちゃん。 よく家にいる。 悪いやつじゃない。 でも、お兄ちゃんは、あたしを撫でながら、パチパチしながら光る四角を見ている。パソコンというらしいけど。 あまり好きじゃない。 いつも、それは、違うだろう! て思ってる。 撫でるなら、こっち見て撫でてよ! ほんとうに、いつもだから、一度、抗議したことがある。 軽く手を噛んだ。本気じゃないんだけど。「痛っ! なんだよ!」て言っただけだった。 いまだに、分かってない。 まあ、でも、お兄ちゃんは、あたしが押し入れにいるとき、開けっ放しにしてくれる。 それだけは、助かる。 だから、ぎりぎり、家族だ。    ◇ あたしのお気に入りの場所は、二つ。 一つは、押し入れ。 一階の、和室の、押し入れ。下の段の、いちばん奥。毛布が積んである、その下。 あそこは、いい。 暗い。狭い。上に重いものがある。後ろが壁。誰も来ない。 あそこは、上から何かが落ちてくることが無いから。 駐車場にいた頃、あたしは、いつも上を気にしていた。 カラスが来る。人間の子どもが石を投げる。車が動く。上と、横と、後ろ。ぜんぶ、気にしていた。 でも、あの押し入れは、上に毛布がある。後ろに壁がある。横も壁。 気にするのは、前だけでいい。 あそこにいると、あたしは、初めて、目を閉じられる。    ◇ もう一つは、二階。 栞の部屋の、窓際。 あそこからは、外が見える。 道が見える。電線が見える。向かいの家の屋根が見える。鳥が来る。でも、あたしを見て、逃げない。 ガラスがあることを知っている。それでいい。 あたしは、そこで、一日の半分を過ごす。 外を見て、何を考えているのか。 家族は、たぶん、こう思っている。「外に出たいのかな」と。 それは、違う。 あたしは、もう、外に出たくない。 あそこは寒い。あそこは怖い。あそこにはもう、あたしの子たちが、いない。 あたしが見ているのは、栞の道だ。 夕方になると、その道の角から、栞が出てくる。 あたしは、それを見て待ってる。 角から出てきた栞は、たいてい、疲れている。 歩き方で分かる。うまくいかなかった日は、うつむいている。うまくいった日は、少しだけ、跳ねように歩いてる。 あたしは、それを見て、階段を降りる。 玄関に着く頃には、鍵の音がする。「ただいまー。コレちゃんいる?」 いるよ。 ずっと、見てたんだから。    ◇ あたしは、遊ぶのが好き。 栞が、あの、棒の先に羽が付いたやつを出すと、あたしは、我を忘れる。 分かっている。あれは羽だ。鳥じゃない。栞が振っているだけだ。全部、分かっている。 でも、体が勝手に動く。 跳ぶ。捻る。着地する。 三歳にしては、動けるほうだと思う。 栞は、あたしが跳ぶと、笑ってくれる。 その顔を見るために、あたしは、ついつい跳んでしまう。 一番好きな時間だ。    ◇ あたしは、寝るのも好き。 一日のうち、たぶん、半分以上は寝てる。 人間は、それをみて、「いつも寝てていいなぁ~」とか言う。 でも、それは、違う。 あたしは、備えている。 いつでも動けるように。 外にいた頃、寝ないと、動けなかった。動けないと、死ぬ。だから、寝る。食べる。寝る。 これは、そういう生き方の癖だ。 今は、その必要がないことを、頭では分かっている。 でも、体が、まだ、覚えている。 だから、あたしは、寝る。 押し入れで。栞の部屋の窓際で。パパの膝で。ママの足元で。 そして、目を開けたとき、みんながいるかを、確認する。 いる。 毎日、いる。 それが、どれだけありがたいことか。 人間は、たぶん、知らない。    ◇ その日は、暑かった。 夏だ。あたしは、暑いのが嫌いだ。毛が邪魔だ。 朝、栞が出かけた。いつも通り、テーブルの角にぶつかって「痛っ」と言った。いつも通り、玄関を出て、八秒で戻ってきた。日傘を忘れていた。「コレちゃん、行ってきます」 あたしは、返事をしなかった。眠かったから。 これを、あとで、あたしは、ずっと後悔する。 パパは、朝早く出た。ママは、買い物に出た。お兄ちゃんは、二階でパソコンを見ていた。 あたしは、二階の、栞の部屋の窓際にいた。 いつもの場所だ。 雀が、二羽来た。電線に止まって、こっちを見ていた。あたしは、見返した。逃げなかった。 太陽が、動いた。窓際の日向が、少し移動した。あたしも、少し移動した。 夏のいい日だった。    ◇ 午後になって、あたしは、なんとなく、目を開けた。 理由は、ない。 いや——あった。 雀が、いなくなっていた。 あたしは、体を起こした。 電線に、一羽もいない。 外が、静かだった。 変だ、と思った。 何かが、変だ。 あたしは、耳を動かした。 音が、しない。 いや、する。 地面の下から。 遠い。まだ遠い。でも、来る。 あたしは、立ち上がった。 毛が、勝手に、逆立った。    ◇ あたしは、走った。 考えるより先に、体が動いた。階段を、転がるように駆け降りた。爪が、木の床を引っ掻いた。 和室へ。 押し入れへ入れ! 体が勝手に動いた。 押し入れの扉は開いていた。お兄ちゃんが、開けっ放しにしてくれていた。 あたしは、飛び込んだ。 毛布の下へ。いちばん奥へ。 そして——    ◇ 家が、世界が、暴れた。 あたしは、毛布の下で、体を丸めて、見えない何かを見ようとした。 音がした。すごい音だ。ガラスが割れる音。何かが倒れる音。 ずっと下から、地面が、唸っている。 毛布の上に、何かが落ちた。重かった。 でも、あたしには、当たらなかった。 毛布が、受け止めてくれた。 それでも、あたしは、目を閉じなかった。 揺れている空間を見ていた。 揺れは、長かった。 長くて、長くて、終わらなかった。 その間、あたしは、たった一つのことを、考えていた。 しおり。 しおり。 しおりは、どこ!    ◇ あの子は、外にいる。 あの子は、ドアの枠にぶつかる子だ。階段を踏み外す子だ。玄関を出て、十秒で戻ってくる子だ。 あの子は、上を見ない。 誰が、あの子を見ている。 誰が、あの子の上に、毛布を、かけてやるんだ。    ◇ 揺れが止まった。 あたしは、動かなかった。動けなかった。 体が、固まっていた。四本の足が、床に貼りついていた。 しばらくして、人間の足音がした。お兄ちゃんだ。「コレット! コレット!」 声が、うわずっていた。 あたしは、返事をしなかった。 できなかった。 喉が、動かなかった。 足音が、家中を走り回った。行ったり、来たり。何度も。何度も。 あたしは、毛布の下で、じっとしていた。 出て行けばいい、と、頭では分かっていた。 でも、体が、動かなかった。    ◇ どれくらい経ったか。 押し入れの襖が、開いた。 光が、入ってきた。 毛布が、めくられた。 お兄ちゃんの顔があった。汗だくで、髪がぐしゃぐしゃで、息が荒かった。 あたしを見て、その顔が、崩れた。笑顔とも泣き顔とも取れない、なんとも言えない顔。「……いた」 あたしは、鳴いた。 我ながら、ひどい声だった。 それしか、声が出なかった。 お兄ちゃんのせいじゃない。分かってる。でも、怖かったから。 めくった毛布を、元に戻してくれた。 そして、こう言った。と思う。「栞、無事だって」    ◇ あたしは、耳を上げた。 しおり。 無事。 人間の言葉なんて、分からない。 でも、「しおり」はわかる。いつも聞いてるから。 そのあとの言葉はわからなかった。けど、お兄ちゃんの声の調子で、分かった気がした。 あの子は、生きてる!    ◇ その日の夜、栞は帰ってきた。 玄関が開いた瞬間、あたしは、走った。 あの匂いがした。紙とインクの匂い。それに、汗と、埃と、知らない匂い。それが、いつもと違うことを表していた。 あたしは、栞の足に、頭を押しつけた。 思いっきり、押しつけた。「コレちゃん!」 栞が、しゃがんだ。 あの日と、同じように。 あの、譲渡会の日と、同じように。 あたしは、喉を鳴らした。 鳴らそうと思って、鳴らしたんじゃない。 勝手に、鳴った。人間の泣くに似ているのかもしれない。 栞は、あたしの背中に、顔を埋めた。 肩が、揺れていた。 泣いていた。 栞は、ほんとうに、よく泣く。 あたしは、思いながら、喉が鳴っていた。 おかえり。 ちゃんと、上を見て歩けたかな。 誰かに、腕を引いてもらえたかな。 あたしは、ここにいた。 しかも、毛布の下に、隠れてた。 情けない。 あんたを守ると決めたのに、あたしは、自分の穴に、逃げ込んだ。    ◇ この家が、もう、安全じゃない。 その夜、あたしは、知った。 あの押し入れが、もう、あたしの場所じゃなくなる。 あの、二階の窓際から、栞が角から出てくるのを見られなくなる。 ケージ。 いつも、病院に行ったり、旅行に行くときに入るケージ。 久しぶりに入ると、狭くなっていた。    ◇ あの日、あたしは、車に乗って、この家に来た。 ケージの中で、鳴かなかった。それは、覚悟と栞への想いがあったから。 でも、今度は。違う。 今度は、あたしは、鳴くことになる。(第三話につづく)
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