「持ってきてない」
「だよね」 母は毛布をたたみながら、当然のように言った。栞を責める響きはなかった。むしろ、自分に 『がっかりしている』そんな口調だった。「昨日は……バタバタだったからね。人間の分もないね」 栞は、体育館を見回した。 三百人ほどが、床に毛布を敷いて座っていた。段ボールで仕切りを作っている家族もいれば、荷物を枕にして横になっている人もいる。朝の光の中で見ると、昨日の暗がりで感じた「非日常」は薄れていた。 代わりに思い出したのは、数か月前の映像だった。日本のどこかの県で豪雨災害が起きて、避難所で生活する人々の姿を、画面越しに見た。あのときは、ただの映像だった。 いま、その風景の中に、自分がいる。 栞の目には、それが生々しく、輪郭を持って映っていた。 誰も、笑っていない。誰も、楽しそうに話していない。
気だるい空気が、床の上に溜まっていた。
紫色の靄がかかっているみたい、と栞は思った。アニメでよく見る、あれ。 髪が乱れている人。同じ服の人。栞自身も、昨日の書店のシャツのままだった。膝のあたりに、白い粉がついている。天井から落ちてきた石膏の粉だ。 体育館の入口から、父が「栞」と言わんばかりに手招きした。 父は昨日の夜、母と兄が寝たあとも、ずっと起きていた。何をしていたのかと思ったら、避難所の掲示板を、端から端まで読んでいたらしい。「ペットフード、市が持ってくるらしいよ。でも早くて今日の午後だそうだ」
「午後」
「それまでは、飼い主でなんとかしろってことだな」 栞は、渡り廊下のほうを見た。「……コレちゃん、朝ごはん、まだなんだけど」
「一食抜いても死なないよ。人間もおなじだ」 父の言い方は、いつもぶっきらぼうだ。冷たいのではなく、事実だけを言う。「ただ、水はやれ。水は抜けない」 ◇ 水。 その一言が、この日一日、栞の頭を支配することになる。 朝七時、体育館の入口に列ができていた。給水の列だった。市の給水車が来ていて、ポリタンクやペットボトルを持った人が並んでいる。 栞は、母から二リットルの空のペットボトルを二本渡された。「並んできて。一人二本まで」
「二本!?」
「四人で八本。それが今日の全部なの」 栞は列の最後尾についた。前に、四十人ほど並んでいる。 並びながら、計算した。 一日に、人間が飲む水。トイレを流す水。手を洗う水。顔を洗う水。歯を磨く水。米を炊く水。食器を洗う水。コレちゃんの水。 家にいたときは、蛇口をひねれば、無限に出てきた。(八本で、足りるの?) 列は、思ったより早く進んだ。前に並んでいた老夫婦が、栞のペットボトルを見て言った。「お嬢さん、それ、飲む用ね」
「え?」
「飲む用と、洗う用は、分けたほうがいいよ。うちはこれ」 老夫婦が持っていたのは、ポリタンクと、それとは別に、大きなバケツだった。「洗う用は、プールの水をもらえるの。飲めないけどね、トイレを流すのには使える」 栞はメモ帳を取り出した。ズボンのポケットに入れっぱなしだったやつだ。 『水は二種類ある。飲む水と、流す水』 書きながら、栞は、自分がまだ『何も分かっていない』ことを、また、突きつけられた。 ◇ 水を持って戻ると、母が渡り廊下から出てきたところだった。「コレットちゃん、水は飲んだ。少しだけどね」
「よかった」
「それより栞、あなた」 母が、栞の顔をじっと見た。「顔、洗った?」
「……洗ってない」
「洗いなさい。あと、歯」 栞は洗面所に向かった。校舎の一階、児童用の低い洗面台が並んでいる場所だ。 蛇口をひねった。 出なかった。 もう一度ひねった。少しだけ、ちょろちょろと出て、すぐに止まった。
「断水。二階は完全に止まってる」 背後から声がした。振り返ると、ジャンパーを着た男性が立っていた。胸と腕章に「災害対策本部」と書かれていた。市役所の職員だろう。「一階は貯水槽の残りが少しだけ。でも、たぶん今日中に切れます」
「あの、じゃあ、顔とか」
「ペットボトルの水を、コップに少しだけ入れて。それで顔を拭くのが一番効率がいいです」 職員は、丁寧に説明してくれた。まだ二十代前半という感じ。「歯磨きは、水がなければ、ガーゼで拭くだけでも違います。口の中が汚れると、肺炎の原因になるので」 栞は、ポケットのメモ帳に手を伸ばしかけた。 書かなきゃ。忘れる前に。 だが、指が、途中で止まった。 目の前の職員の、目を見たからだ。 端正な顔立ちをしてるのに、目だけが疲れていた。髭が中途半端に伸びていた。ジャンパーの襟が片方だけ内側に折れていた。 たぶん、この人は、昨日から寝ていない。 すぐに行かなければならない場所がある。三百人分の水と、トイレと、名簿と、掲示板と、それから、栞の知らない何十もの仕事が、この人を待っている。 なのに、こうして立ち止まって、断水のことを、歯磨きのことを、丁寧に説明してくれた。説明を聞いたのは、栞だけだ。 メモを出せば、あと三十秒はかかる。 開いて、ページをめくって、ペンを探して、書き取って、「もう一度お願いします」と言うかもしれない。 昨日の百二十秒は、長かった。永遠に終わらないと思った。 でも、この人の三十秒のほうが、たぶん、重い。 昨日までの栞なら、何とも思わなかった時間だ。書店で、宮辺さんの言葉を、何度でも書き取っていた。宮辺さんは待ってくれた。それが当たり前だと思っていた。 でも、ここは書店じゃない。 この人の三十秒は、この人のものじゃない。三百人のものだ。 栞は、メモ帳を出さなかった。 代わりに、聞いた言葉を、頭の中で三回繰り返した。 コップに少し。タオルの端。ガーゼで拭く。口の中が汚れると、肺炎になる。 コップに少し。タオルの端。ガーゼで拭く。口の中が汚れると、肺炎。 コップに少し。タオルの端。ガーゼ。肺炎。「ありがとうございます」 言い終わる前に、職員はもう次に向かって歩き出していた。振り返らずに、片手を上げただけだった。 雑な仕草だった。 でも、栞は、その雑さが、なぜか嬉しかった。 丁寧に頭を下げられたら、たぶん、もう二度と話しかけられなかった。 その後姿を見送り、栞は思った。 ちゃんと、覚える。 あの人が、二度言わなくて済むように。 ◇ 顔を洗う、という行為の贅沢さを、栞はこの日初めて知った。 コップに、水を三センチ。それをタオルの端に含ませて、顔を拭く。目のまわり。鼻の横。おでこ。 それで終わりだった。 鏡を見た。ファンデーションは落ちきらず、頬のあたりに斑になって残っている。マスカラは目の下に散って、拭いても薄く伸びるだけだった。 落とせないなら、いっそ塗ったままのほうがましだったのかもしれない。でも、そのまま眠って、朝には顔がかゆかった。 昨日の朝、鏡の前で十五分かけたものが、いま、落とすことすらできずに顔に貼りついている。 汚れは落ちていない。ただ、少しだけ、さっぱりした気がした。『風呂』 その単語が浮かんで、栞は思考を止めた。考えてはいけない気がした。 昨日から、髪を洗っていない。汗をかいた。埃をかぶった。十二キロ歩いた。
溜息が出た。 誰にも聞こえないように、小さく。 体育館に戻ると、母がリュックから何かを取り出していた。「これ、使いなさい」 ウェットティッシュだった。「昨日、家から持ってきたの。一袋だけなんだけど」 栞はそれを持って、体育館の隅に行った。段ボールで仕切られた着替えスペースが作られていて、順番待ちの列があった。 三十分並んで、自分の番が来た。 狭い空間で、栞は服を脱いだ。ウェットティッシュを一枚取り出す。 小さかった。 手のひらほどの大きさ。それで、腕を拭く。肩を拭く。首を拭く。 三枚目で、栞は気づいた。拭いているうちに、水分が飛んでいく。最初は冷たくて気持ちよかったのに、途中から、ただ紙で肌をこすっているだけになる。 背中に手が届かない。 脚を拭こうとして、ウェットティッシュはもう乾いていた。新しいのを出す。一枚、また一枚。 袋の中身が、みるみる減っていった。 結局、十枚使ってしまった。栞は全身を拭き終えたーーことにした。 拭き終えていなかった。背中は、ほとんど拭けていない。髪はどうにもならない。 服を着ながら、栞は思った。(一袋、八十枚。四人で。何日分?) 答えは、たぶん、二日だった。 ◇ 昼前、栞は渡り廊下にいた。 コレットは、キャリーの中で丸くなっていた。タオルは半分だけかけてある。全部かけると暗すぎるし、全部外すと落ち着かない。昨日の夜、ミケの飼い主さんに教わった。「コレちゃん」 網目に指を入れると、コレットが顔を上げた。 舐めた。 ざらざらした舌が、指の腹を撫でる。「ごめんね、ごはん、もうちょっと待ってね」 餌はまだ届いていない。母のトートバッグには、いつ買ったのかも覚えていないという菓子パンが二つ入っていた。その片方を朝、母が少しちぎって差し出したが、コレットは匂いを嗅いで、顔を背けた。 あの子は、緑の袋のあれしか食べない。
家では、それは「わがまま」だった。ここでは、それは「食べられるものがない」ということだった。 水の器を見る。少し減っている。飲んではいる。(それだけが救いだ) 栞は、キャリーの前にしゃがみ込んだまま、しばらく動かなかった。 ◇ 午後一時、体育館に放送が入った。「昼食の配給を開始します。列にお並びください」 栞は列に並んだ。 配られたのは、おにぎり二個だった。ラップに包まれた、白いおにぎり。それだけ。 汁物もない。おかずもない。 栞は自分の場所に戻り、毛布の上に座って、ラップをはがした。 塩むすびだった。中に、何も入っていない。 一口、食べた。 その瞬間、栞の目に涙が浮かんだ。自分でも、驚くほど唐突に。 おいしかった。 ものすごく、おいしかった。 米の甘み。塩の味。それだけなのに、栞が今まで食べたどんなおにぎりよりも、おいしかった。コンビニのおにぎりも、母が作る具だくさんのおにぎりも、修学旅行で食べた駅弁も、全部、これには敵わなかった。 温かかった。 誰かが、これを、握った。 栞は、二個目を食べる前に、手を止めた。「お母さん、このおにぎり、誰が作ったの?」
「調理室じゃない? 朝から誰か動いてるみたいよ」 栞は立ち上がった。 ◇ 家庭科室のドアは開いていた。 中を覗いて、栞は立ち尽くした。 二十人ほどが、動いていた。 大きな寸胴鍋。並べられたバット。ラップの箱が積み上がっている。エプロンをした女性たち。三角巾。マスク。そして、全員がビニール手袋をしていた。 部屋の隅で、市役所の職員が、ホワイトボードに何かを書き込んでいた。今朝、洗面所で会った、あの人だった。「あの」 栞が声をかけると、エプロンの女性が振り返った。五十代くらいだろうか。「はい、どうされましたか?」
「あの、私に、何か、できることありますか」 女性の目が、マスクの上で少し丸くなった。それから、細くなった。「ある。いっぱいある。でも、その前に」 女性は、部屋の入口を指さした。「手を洗って。あと、そこのアルコール。それから、これ」 差し出されたのは、ビニール手袋とマスクと、三角巾だった。「髪、まとめて。一本も落とさないつもりで」 ◇ 三角巾の巻き方が、分からなかった。「後ろで結ぶんじゃなくて、先に髪を全部入れてから」 女性——安西さんというらしい——が、手際よく巻き直してくれた。「爪、短い?」
「はい」
「指輪とマニキュアは?」
「してないです」
「じゃあOK! 手を洗ってくださいね」 水は、貴重だった。だから洗い方も決まっていた。 別の人がペットボトルの水を、少しずつかけてくれる。その下で手をこすり合わせる。石鹸を使い、指の間、爪の先、手首まで。そして、アルコールで消毒する。「ここまでで、水は五十ミリリットルね」 安西さんが言った。「家だと、ジャーッと出しっぱなしにするでしょ。あれ、一回で二リットル使うのよ」 栞は、目を丸くした。 ◇ 最初に教えてもらったことは、ラップを、決まった大きさに切って、並べることだった。「素手で触らないでね。絶対に!」 安西さんが言った。「ご飯は、必ずラップの上で握ってね。手が触れるのはラップだけ。ビニール手袋をしてても、直接は触らないこと!」
「手袋してるのに、ですか?」
「してても。手袋の表面にも菌はつくから!」 栞は、隣を見た。 女性たちが、しゃもじでご飯をラップの上に落とし、ラップごと握って、くるりとひねっていた。手のひらで直接ご飯に触れている人は、一人もいなかった。「それとね」 安西さんが、栞の耳元で言った。「早く」
「え?」
「早く握る。ご飯が温かいうちに、手早く。もたもたしてると、その間に菌が増えるの」 栞は、しゃもじを握った。 最初の一個は、いびつだった。二個目は、大きすぎた。三個目で、ようやく形になった。 十個目で、腕が痛くなった。 三十個目で、栞は気づいた。 自分が昼に食べたあの二個も、誰かがこうやって、汗をかきながら握ったものだった、ということに。 ◇「なんで、そこまでするんですか」 休憩のとき、栞は聞いた。 安西さんは、パイプ椅子に座って、水を一口飲んでから言った。「そこまでって?」「手袋とか、マスクとか、ラップとか。……家だと、そこまでしないですよね」 安西さんは、しばらく黙っていた。それから、栞のほうを向いた。「ここで食中毒が出たらどうなると思う?」 栞は、答えられなかった。「三百人がここに避難してるの。トイレは仮設が四つ。水は出ない。病院は、今、大怪我の人でいっぱい。救急車は、来ない」 安西さんの声は、静かだった。「下痢と嘔吐が三十人同時に出たとするでしょ。手を洗う水がないから、あっという間に広がる。脱水になっても、点滴を打てる場所がない。……高齢者と子どもは、それで死ぬの」 栞は、息を呑んだ。「食中毒は、軽傷なら体の外に出したら回復するし、少し重い食中毒でも受診したら回復するでしょ。でも、ここではそれでは済まないの。
医療が足りないところで起きた食中毒は、重症化するの」 安西さんは、水のボトルを置いた。「だからね、栞ちゃん。衛生だけは、どんなことがあっても手を抜いちゃいけないの。他のことは、我慢していい。風呂も、着替えも、我慢できる。でも、これだけは、我慢の問題じゃないの」 栞は、メモ帳を取り出した。 今度は、ちゃんと書いた。 ◇ 夕方、栞は渡り廊下に行った。 餌が、届いていた。市が用意したペットフードだ。段ボールが二箱、渡り廊下の隅に置かれている。 でも、緑の袋ではなかった。「食べる、かな」 栞は、少量を器に入れた。 コレットは、キャリーから顔を出して、匂いを嗅いだ。 嗅いで、動かなかった。「コレちゃん、お願い。今日は、これしかないの」 栞は、器を近づけて、それから、ケージに入れた。 コレットは、何度も匂いを嗅いで、それから、一粒だけ、口に入れた。 噛んだ。 飲み込んだ。 そして、もう一粒。 栞は、その様子を見ていた。ゆっくり、ゆっくり、コレットは食べた。いつもの半分もない量だった。それでも、食べてくれた。(分かってるんだ、この子) 家では、青い袋を三日間拒否した。 その子が、今、文句も言わずに、知らない餌を食べている。 栞は、キャリーの網目に指を入れた。 コレットが、舐めた。「……ありがとう」 声が、震えた。 ◇ その夜、栞がもう一度渡り廊下に行くと、先客がいた。 ミケの飼い主さんだった。 ミケのケージの前にしゃがんで、小さな声で話しかけている。「こんなことになっちゃってねぇ。狭いところで、ごめんね」 栞は、足を止めた。 邪魔をしてはいけない気がして、そっと横を通り、コレットのキャリーの前に座った。「コレちゃん、来たよ」 小声で言うと、コレットが顔を上げた。 しばらく、それぞれの空間に、静かな時間が流れた。渡り廊下は暗く、体育館の窓から漏れる灯りだけが、コンクリートの床を照らしていた。 風が通った。少しだけ、涼しかった。 栞は、迷った末に、口を開いた。「あの」
「ん?」
「ミケちゃん、本当に元気ですよね。十四歳なんて、信じられないです」 少しだけ、明るい声で言ってみた。 この人と、話したかった。同じ猫の飼い主として、飼い主の後輩として。 ミケの飼い主さんは、栞のほうに向き直った。「一度、手術したの」 栞は、言葉に詰まった。 何と言えばいいのか、分からなかった。こういうとき、いつもそうだった。 ただ、頷いた。「背中に腫瘍が見つかってね。あの時は、もう、だめだと思ったの」 女性は、ミケのケージを見ながら話した。「そしたらね、動物病院の先生が、『悪性だけど転移がないから、切除しましょう』って」 栞は、黙って聞いていた。 話の合間に、「はい」とだけ答えた。 ◇「十二歳のときよ。手術できる年じゃないって、他の病院では言われたの」 女性は、ケージの網目を、指でそっと撫でた。「麻酔で死ぬかもしれないって。それでもって、私が決めたの。この子の命なのに、私が決めた」 栞は、コレットを見た。 三歳。まだ若い。手術も、大きな病気も、したことがない。「先生がね、『飼い主さんが決めていいんです』って言ったの。『この子は自分で決められないから、あなたが決めるんです』って」 その言葉が、栞の中に、深く落ちた。 ——この子は、自分で決められない。 昨日の夜、メモ帳に書いた一行を、栞は思い出していた。 『この子は、自分で逃げられない』 同じことだった。「手術中。待合室で、私、ずっと震えてた」 女性が笑った。「そしたら、出てきたのよ。麻酔から覚めて、私を見て、鳴いたの。『腹減った』って顔で」 栞も、少し笑った。「それから二年。まだ生きてる。……こんなことになっても、生きてる」 女性は、そこで少し黙った。「だからね」 声のトーンが、変わった。「この子を、ここで死なせるわけにはいかないの」 ◇ 栞は、その言葉の重さを、少し遅れて理解した。 渡り廊下は、屋根はあるが、壁がない。風が通る。昼は暑く、夜は冷える。 十四歳。手術をした猫。「……あの」 栞は、聞いた。「暑さとか、大丈夫なんですか」
「大丈夫じゃない」 即答だった。「昼間はね、私、ここでずっと団扇であおいでるの。それでも、この場所は暑い」 女性は、ため息をついた。「猫はね、暑さで死ぬの。人間より弱いのよ。汗をかけないから」 栞は、自分が昼間、体育館にいたことを思い出した。 あそこも暑かった。でも、扇風機はあった。窓も開いていた。 ここには、何もない。「私、明日から、昼間もここに来ます」 栞は言った。「団扇、二本あります。母のと、私の」 女性が、栞を見た。 それから、笑った。少し、目が濡れていた。「ありがとう」 ◇ 体育館に戻ると、母がまだ起きていた。「遅い」
「ごめん」
「ミケちゃんの人と話してた?」
「うん」 栞は、毛布に座った。「お母さん」
「なに」
「明日、私も調理の手伝い、続けていい?」
「いいけど。……疲れない?」 栞は、少し考えた。「疲れる。でも」 うまく言葉にできなかった。 昼に食べた、あのおにぎりのことを考えていた。 あれは、誰かが握ったものだった。 水も、市の職員が運んできたものだった。 餌も、誰かが手配したものだった。 この体育館の灯りも、仮設トイレも、名簿も、掲示板も、全部、誰かが動いた結果だった。 昨日の栞は、それを「当たり前」だと思っていた。避難所とは、行けば何かがある場所だと思っていた。 でも、違った。 避難所とは、人が作っている場所だった。「……皆に、沢山おにぎりを食べてもらいたい」 やっと出てきたのは、そんな言葉だった。 母は、しばらく黙っていた。 それから、言った。「じゃあ、私も行く」
「え」
「明日、二人で行きましょ。私、あなたより料理できるし」 栞は、頬を膨らませかけて、やめて、笑った。 二日目にして、初めて、まともに笑った気がした。 ◇ 消灯後、栞はペンライトをつけて、メモ帳を開いた。 昨日書いたページの、次のページ。 『二日目に知ったこと』 ・水は二種類ある。飲む水と、流す水
・顔を洗うのに必要な水は、コップ三センチ
・手洗いは、出しっぱなしで二リットル。コップ一杯なら五十ミリリットル
・ウェットティッシュは、拭いてる途中で乾く。八十枚で二日もたない
・断水は、上の階から来る
・歯を磨かないと、肺炎になることがある そこまで書いて、栞は行を空けた。 『調理室で教わったこと』 ・手袋、マスク、三角巾。髪は一本も落とさない
・ご飯は素手で触らない。ラップの上で握る
・手袋をしていても、直接は触らない
・とにかく手早く。もたもたすると菌が増える
・避難所で食中毒が出たら、重症化する。医療が足りないから
・衛生だけは、どんなことがあっても手を抜かない 最後の一行を、栞は少し濃く、なぞった。 それから、また行を空けた。 『コレちゃんのこと(二日目)』 ・餌は午後に届いた。でも、いつものじゃない
・それでも、食べてくれた
・水は飲んでる
・渡り廊下は暑い。猫は汗をかけない
・団扇と保冷剤がいる
・明日から、昼も行く ペンが、止まった。 栞は、少し考えて、最後に、こう書いた。 『この子は、自分で決められない。だから、私が決める』 書いてから、栞は、その一行を、しばらく見つめていた。 ◇ 寝る前に、栞はもう一度だけ、渡り廊下に行った。 三度目だった。母には「行きすぎ」と言われた。 コレットは、眠っていなかった。 タオルの下から、目だけがこちらを見ていた。「コレちゃん」 栞がしゃがむと、コレットは体を起こして、キャリーの入口まで来た。 網目に、指を入れる。 舐めた。 一回、二回、三回。 昨日より、長かった。「明日ね、昼も来るからね」 コレットは、鳴かなかった。 ただ、喉が、小さく鳴っていた。 ◇ 体育館に戻る途中、栞は、家庭科室の前を通った。 灯りがついていた。 中を覗くと、安西さんと、あの市役所の職員が、二人で何かを並べていた。明日の朝の準備をしているらしい。 時計を見た。夜十一時を回っていた。 栞は、声をかけようとして、やめた。 代わりに、深く、頭を下げた。 誰も見ていなかった。 それでいい、と栞は思った。 ◇ 三日目の朝が来る。 この避難所の生活が、あと何日続くのか。 誰も分からない。 仮設トイレの数が、水が、食糧が、もっと足りなくなることも。 渡り廊下の一匹が、体調を崩すことも。 ◇ 朝倉栞、二十一歳。書店員一年目。 ドジで、早とちりで、なんにも知らなかった彼女は、二日目にして、初めて「誰かのために動く側」に回った。 それでも、まだ、何もできていない。 おにぎりを三十個握って、腕が痛くなっただけだ。 でも、三十個のおにぎりは、三十人の誰かが食べる。 それは、栞にとって大きな、大きな、一歩だった。(第四話につづく)