君と見つける、新しい景色
しおりの、ない日々
第四話 声のする場所
猫山 タスク 2026/07/30
朝六時。渡り廊下は、もう暑かった。 栞は、うちわを一本持っていた。昨日、谷口さんと話して決めたことだ。昼のあいだは通って、風を送る。それなら、お金も許可もいらない。 コレットのキャリーの前にしゃがんで、栞は手を止めた。 三つ隣のケージから、音がしていた。 はっ、はっ、はっ。 速い。浅い。犬みたいな音だった。「ミケちゃん」 谷口さんが、ケージの扉に手をかけていた。声が震えていた。 栞は立ち上がって、覗き込んだ。 ミケが、口を開けていた。 舌を出して、息をしていた。 昨日、谷口さんが言っていたことを思い出した。猫は、人みたいに汗をかけない。肉球にしか汗腺がないから、暑いときは呼吸で逃がすしかないのだ、と。「これ、まずいですよね」「わかんない。わかんないの」 谷口さんの手が、ケージの網に触れて、離れて、また触れた。 栞は、渡り廊下を見渡した。コンクリートの床。屋根はあるが、東側が開いている。朝の光が、もう斜めに差し込んでいた。ミケのケージは、その光がいちばん先に当たる場所にあった。「動かします?」 栞は言った。「え?」「こっち、日陰なんで」 二人で、ケージを持った。老猫が一匹入っているだけなのに、重かった。持ち手が汗で滑って、栞は一度、床に置き直した。 ◇ 濡れたタオルを首と脇に当てて、うちわで風を送る。谷口さんがそうした。 栞は、水を探しに走った。 体育館の入口に、配給の箱があった。五百ミリリットルのペットボトルが並んでいる。栞は、係の人に頭を下げた。「あの、一本、いただけますか」「一人一日二本までです。今日の分、まだ受け取ってないですか」「受け取ってないです」 言ってから、栞は、それが嘘だと気づいた。昨日の夜に、明日の分としてもう渡されていた。リュックの中に、まだ半分残っている。「……すみません。嘘つきました。もらってます」 係の人が、栞の顔を見た。四十代くらいの男性だった。目が赤い。「猫ですか」「え」「さっきから、渡り廊下に走ってるでしょ」 栞は、うなずいた。 男性は、箱の下のほうから一本取って、栞に渡した。「これ、ラベルが破れてるやつです。数に入ってないことにします」「あの」「早く行って」 ◇ 自分のリュックからも一本出して、栞は渡り廊下に戻った。 谷口さんは、タオルを絞っていた。「谷口さん、水」「……いいの? 人の水よ、それ」 谷口さんの手が止まった。「私、この子のためにって、そればっかり言ってるでしょう。でもね、ここには、水が足りない人が三百人いるの。おばあちゃんも、赤ちゃんも」 栞は、キャップを開けた。「谷口さん。手術のとき、先生になんて言われたんでしたっけ」 谷口さんが、顔を上げた。「……この子は自分で決められないから、あなたが決めるんです、って」「今も、同じだと思います」 しばらく、風の音だけがした。 谷口さんは、タオルを受け取って、水に浸した。 ◇ 九時前、ミケの呼吸が、少し落ち着いた。 開いていた口が閉じて、鼻で息をするようになった。谷口さんは、ケージの前に座り込んだまま、動かなかった。「病院、行けたらいいんですけど」 栞が言うと、谷口さんは首を振った。「昨日、電話したの。誰も出なかったわ」「……そうですか」「先生だって、被災してるもの」 栞は、メモ帳を出した。 書いた。「動物病院も、被災する」。 当たり前のことだった。当たり前のことを、栞はまた一つ、知らなかった。 ◇ 十時。父が帰ってきた。 朝いちばんに、家を見に行っていた。「黄色だった」 父は、体育館の床に座って、そう言った。「黄色って?」「応急危険度判定。赤が危険、黄色が要注意、緑が調査済み。うちは黄色」「じゃあ、住める?」「住んでいいって意味じゃない。要注意ってのは、余震で危ないかもしれないから気をつけろ、ってことだ」 母が、ため息をついた。「いつまでここにいるの」「わからん」 父は、それだけ言って、横になった。三日目にして、初めて父が疲れて見えた、と栞は思った。 ◇ その日、避難所に人が増え始めたのは、昼前からだった。 最初は、二人。次に、四人。それから、家族連れが続けて三組。 栞は、受付の前を通りかかって、足を止めた。 列ができていた。「マンションの十一階で。エレベーターが止まってて」「水を上まで運べないんです。トイレも流せなくて」「昨日までは車で寝てたんですけど、もう腰が」 みんな、家が潰れたわけではなかった。 三日、耐えて、耐えられなくなって、来ていた。 栞は、そこで初めて理解した。避難所というのは、家をなくした人が来る場所だと思っていた。違った。家があっても、水が出なければ、人は住めない。 ◇ 午後一時過ぎ、その声は、体育館の入口から聞こえてきた。「だから、入れないってどういうことだよ」 栞は、渡り廊下から戻ってきたところだった。 五十代くらいの男性が、市の職員に詰め寄っていた。職員のほうは、昨日の夜、調理室で安西さんと明日の準備をしていた人だった。名札に、高梨、と書いてあった。「母親が八十四なんだよ。車で寝かせろって言うのか」「そうは言っていません」「じゃあ入れろよ」「もう、床がないんです」 高梨さんの声は、大きくなかった。ただ、疲れきっていた。「体育館は八百平米ありません。国の目安だと、一人あたり二平方メートルは要る。ここには今、三百二十人います。通路と、受付と、物資置き場を引くと、もう計算が合わないんです」「そんなの、詰めればいいだろ」「詰めると、通路がなくなります。夜中に火が出たら、逃げられません。それと」 高梨さんは、そこで言葉を切った。「トイレが四つしかないんです」 男性が、黙った。「五十人に一つが最初の目安で、落ち着いてきたら二十人に一つ、と言われています。三百人で四つは、もう限界を超えてる。これ以上増えると、並んでる間に間に合わない人が出ます。そうすると、そこから病気が広がる」「……だったら、どうしろって言うんだよ」「わかりません」 高梨さんは、そう言った。 栞は、息を止めた。 わかりません、と職員が言うのを、生まれて初めて聞いた気がした。「わかりませんが、今、教室を開ける相談をしています。それまで、あと一時間だけ、待ってもらえませんか」 男性は、しばらく高梨さんを睨んで、それから、乱暴に頭を下げた。「……悪かったよ」 ◇ 教室が開いたのは、二時半だった。 校舎の一階の三部屋。学校側と市と、自治会の人たちが集まって決めたらしい。栞は、その話し合いを遠くから見ていた。誰も怒鳴っていなかったが、誰も笑ってもいなかった。 教室に入るのは、高齢者と、体の悪い人と、小さい子のいる家族が優先になった。 さっきの男性は、母親を教室に運んで、それから体育館の隅に自分の場所を作った。孫らしい男の子が一人、その足元にくっついていた。 栞が通りかかったとき、男性が顔を上げた。「あんた、さっきいたな」「……はい」「かっこ悪いとこ見せたな」 栞は、なんと答えていいかわからなかった。 こういうとき、いつもそうだった。 結局、こう言った。「教室、開いてよかったです」 男性は、少しだけ笑った。 ◇ 問題は、そのあとに起きた。 人が増えて、床が埋まって、体育館は静かになった。息が詰まるほど静かだった。 その静けさの中で、子どもの声だけが、よく響いた。 男の子が二人、段ボールの間を走っていた。さっきの孫と、もう一人。追いかけっこをしているらしい。「ちょっと!」 どこかから、声が飛んだ。「うるさいって!」 男の子たちが、止まった。 母親らしい人が走ってきて、腕を掴んで、頭を下げた。何度も頭を下げた。「すみません、すみません」 そして、子どもを叱った。「座ってなさい! みんな疲れてるの!」 男の子は、泣かなかった。 毛布の上に、正座した。 栞は、その様子を、ずっと見ていた。 ◇ 夕方まで、体育館の中で、子どもが走ることはなかった。 その代わり、栞は、あることに気が付いた。 入口に近い場所に、女の子が一人、膝を抱えて座っていた。六歳くらいだろうか。三日目の朝から、栞が通るたびに、そこにいた。 動いていなかった。 喋ってもいなかった。 母親が、隣の人に話しているのが聞こえた。「うちの子、手がかからなくて助かるんです。ほんとに、いい子で」 栞は、そのとき、なぜか、胸のあたりが熱くなった。 うまく説明できなかった。ただ、あの子は、いい子だからああしているんじゃない気がした。 ◇ 栞は、自分の場所に戻った。 リュックを開けて、本を三冊、出した。 避難する夜、なぜか掴んできた三冊だ。兄に「なんで本?」と呆れられたやつ。 文庫が二冊と、単行本が一冊。 一冊は海外のミステリで、一冊は書店員向けの棚づくりの本で、もう一冊は、栞がずっと読みかけの恋愛小説だった。 栞は、しばらくそれを見ていた。 書店員なのに。 子どもに読める本を、一冊も持ってきていなかった。 ◇「図書室、開けられませんか」 栞は、高梨さんを捕まえて、そう言った。 高梨さんは、書類を抱えたまま、栞を見た。「ここ、小学校ですよね。図書室、ありますよね」「……あります」「子どもが、行く場所がないんです。走ったら怒られて、座らされて。あの子たち、三日間、何もしてないんです」 高梨さんは、少し黙ってから、指を折り始めた。「鍵は開けられます。ただ、あそこは学校の備品です。壊れたときに誰が責任を取るのか、まだ決まっていません」「はい」「けがをしたら、誰が対応しますか。医者はいません」「はい」「見ている大人は誰ですか。市の職員は、今、七人です。三百二十人に七人です」「はい」「それと、学校は、いつか授業を再開します。そのとき、図書室が避難所になっていると、返せなくなります」 栞は、うなずき続けた。 言い返す材料は、一つもなかった。 全部、正しかった。 昨日の夜、この人が十一時に調理室で明日の準備をしていたのを、栞は見ていた。この人は、意地悪で言っているのではなかった。「じゃあ」 栞は、言った。「体育館の隅で、いいです」「隅?」「毛布を二枚敷いて、そこだけ子どもがいていい場所にします。時間は三十分だけ。大人は二人以上いること。走らない。名前を紙に書く。それだけです」 高梨さんが、顔を上げた。「……それ、誰が考えたんですか」「昨日、調理室で教わりました。ルールを先に決めるって」 高梨さんは、少しの間、栞の顔を見ていた。 それから、書類を持ち替えて、言った。「一つだけ、条件があります」「はい」「預かる、とは言わないでください」「え」「『お子さんをお預かりします』と言った瞬間に、それは責任を持った仕事になります。あなたが潰れます。親御さんには、必ず、近くにいてもらってください。あなたたちは、一緒に遊ぶだけです」 栞は、メモ帳を出して、書いた。 預かるのではなく、一緒にいる。 ◇「どなたか、手伝ってもらえませんか」 栞は、体育館の真ん中で、そう言った。 声が、思ったより小さくなった。三百人が、床に座っている。ほとんどの人が、こちらを見なかった。 見た人も、すぐに目を逸らした。 誰も、手を挙げなかった。 当たり前だ、と栞は思った。 みんな、家がどうなったかわからない。仕事もどうなるかわからない。自分のことで、いっぱいなのだ。 それでも、心臓が痛かった。 顔が熱くなって、栞は、もう一度言おうとして、息を吸った。「俺、やるわ」 声がしたのは、入口の近くだった。 さっきの男性だった。西口、と名乗った。「保育園の送り迎え、毎日やってんだよ。うちの孫の」 立ち上がって、ばつが悪そうに首の後ろを掻いた。「さっきは、悪かったな。あんたにじゃないけど」 それから、二人目が挙がった。中学生くらいの女の子だった。その子の姉も一緒に来た。 三人。 栞を入れて、四人になった。 ◇ 毛布を二枚、体育館の隅に敷いた。 紙に「こどもの場所 三時から三時半」と書いて、柱に貼った。 最初に来たのは、西口さんの孫と、さっき叱られた男の子だった。 栞は、本を開いた。ミステリでも棚づくりの本でもなく、読みかけの恋愛小説を、無理やり子ども向けに言い換えて話してみた。 三分で、二人ともよそを向いた。「あんた、それは無理だ」 西口さんが笑った。「見てろ」 西口さんは、毛布の上に胡座をかいて、両手を広げた。「じゃんけんな。負けたやつ、変な顔」 それだけだった。 それだけで、男の子たちが笑った。 三日ぶりに、体育館の隅で、子どもが声を出して笑った。 栞は、その声を聞きながら、少しだけ悔しくて、それから、どうでもよくなった。
そして、笑った。 ◇ 三時二十分。 毛布の外の、少し先に、あの女の子が立っていた。 膝を抱えるのをやめて、立っていた。 母親が「みなみ、行っておいで」と言った。女の子は、動かなかった。 栞は、近づかなかった。 代わりに、毛布の端に座って、女の子のほうを見ないまま、言った。「ここ、空いてるよ」 女の子は、来なかった。 三時半になって、栞が紙を剥がしにいくまで、そこに立っていた。 剥がすとき、後ろから、小さな声がした。「あしたもする?」 栞は、振り返った。「するよ」 そう言った。 言ってから、明日もやることが、決まった。 ◇ 夕方、渡り廊下に行くと、ミケは寝ていた。 呼吸は、普通に戻っていた。谷口さんが、ケージの横で、うちわを持ったまま、コクリ、コクリしていた。「谷口さん」「……あら」「ミケちゃん、大丈夫そうですね」「うん。夕方から、ちょっと食べたの」 栞は、コレットのキャリーの前に座った。 朝、入れておいた餌が、半分以上残っていた。 昨日は、全部食べた。「コレちゃん」 コレットが、顔を上げた。 網目に指を入れると、舐めた。 一回だけだった。 ◇ その夜、栞はメモ帳を開いた。 三日目の分を、書いた。--- 三日目に知ったこと- 家が壊れなくても、水が出なければ住めない。三日目に人が増えるのは、そういうこと
- 避難所には、入れる人数が決まってる。詰めればいい、ではない。火事の時、通路がないと、逃げられない
- 仮設トイレは五十人に一つが最初の目安。落ち着いたら二十人に一つ
- 応急危険度判定の黄色は、「住んでいい」ではなく「気をつけろ」
- 猫は汗をかけない。口を開けて息をしていたら、それは、まずい
- 動物病院も、被災する
- 子どもは、走る場所がない。座らされる。仕方なく、静かに座る
- 静かな子は、いい子とは限らない
- 「預かります」と言ってはいけない。一緒にいる、と言う
- ルールを先に決めると、話が通る
- 怒鳴っていた人が、手を挙げてくれた--- 書き終えて、栞は天井を見た。 体育館の高い窓から、月が見えた。 三日目の栞は、まだ何も解決していない。 水は足りないままだし、トイレは四つのままだし、コレットは餌を半分残した。 図書室は、開かなかった。 開いたのは、毛布二枚ぶんの床と、三十分だけだ。 それでも、そこで子どもが笑ってくれた。 だから、明日も、やろうと決めた。 あしたもする? あの声が、まだ耳に残っていた。 栞は、明日の朝、何を持っていこうかと考えて、そのまま眠った。(第五話につづく)