君と見つける、新しい景色
しおりの、ない日々
第五話 半分のままの皿
猫山 タスク 2026/08/14
四日目の朝、皿の餌は昨日のままだった。 半分から減っていない。 栞は、餌の皿に指を入れてみた。 コレットは、顔を上げなかった。 水も、減っていなかった。昨日の夜に入れたままの高さで、皿の中に残っている。「谷口さん」 声が、思ったより高くなった。「コレちゃん、水も飲んでないです」 谷口さんが、ミケのケージの前から立ち上がって、こちらへ来た。 しゃがんで、しばらくコレットを見た。 それから、栞の顔を見た。「病院、行ったほうがいい」「でも」「猫はね、食べないのがいちばんまずいの。二日三日食べないと、肝臓を壊すのよ。太ってる子ほど危ない」「……ミケちゃんは」「あの子は食べた。だから待てる。この子は待てない」 谷口さんは、それだけ言って、また座った。 言い方が、昨日までと違っていた。迷っていなかった。 ◇ 電話は、三回目でつながった。 昨日、留守電だった動物病院だ。 女の人が出て、「今日は午後だけ診ています」と言った。停電は復旧したが、水がまだ出ないので、できることは限られる、とも言った。「行きます」 栞は、そう答えた。 言ってから、車のことを考えていなかったと気づいた。 ◇「無理だ」 父は、そう言った。 体育館の床にあぐらをかいて、スマホの画面を見ていた。「ガソリンが四分の一しかない」「入れればいいじゃん」「入れられないんだよ」「昨日、見てきた。二時間並んで、二十リットルまでだ。今日はもっと長いだろう」「じゃあ……」「病院はどこだ」「二つ隣の駅の」 父は、少し黙った。「片道十五分か。往復で三十分。……行けなくはない」「ほんとに?」「その代わり、明日から会社は歩きだ」「会社、あるの?」「昨日から動いてる。うちみたいなとこが止まってたら、誰が直すんだって話でな」 母が、毛布をたたむ手を止めた。「コレット、そんなに悪いの?」「……水も飲んでない」 母は、少しのあいだ、何も言わなかった。 それから、たたみかけの毛布を置いて、渡り廊下のほうを見た。「昨日、私も行ったのよ。あの子のとこ」「え」「あんたが寝てるあいだ。名前呼んだけど、顔も上げなかった」 母は、そこで少しだけ笑った。うまく笑えていなかった。「あの子、私にはいつも無愛想だったから、そういうもんかと思ってたけど」 そして、父のほうを向いた。「ガソリン、大丈夫なの?」「二十リットル入れるのに、三時間並ぶ」「……そう」 母は、また毛布を持った。「行ってきなさい。あんたが行かないと、あの子、余計に食べないから」 栞は、母の顔を見た。 母は、こちらを見ないまま、毛布の角を揃えていた。「その代わり、帰ったら手伝って。洗濯物、給水待ちで山になってるの」 ◇ 病院は午後なので、午前のうちに、栞は西口さんと体育館の隅へ行った。 昨日と同じ場所に、同じ紙を貼った。「こどもの場所 四時から四時半」。 貼りながら、西口さんが言った。「昨日は何人だった?」「五人です」「今日は増えるぞ」「そうですか?」「うわさになってるからな。昨日の夜、三人に聞かれた」 栞は、うれしかった。 毛布を、もう一枚借りてこようかと考えた。 ◇ 午後一時。父の車で、栞は病院へ向かった。 道路は、ところどころ波打っていた。マンホールが、道より高く飛び出しているところがあった。 父は、ゆっくり走った。 四日前の夜、栞はこの道を歩いた。暗くて、何も見えなかった。 昼に見ると、違うものが見えた。 屋根に、青いシートがかかっていた。一軒ではなかった。三軒に一軒くらいの割合で、青が乗っていた。同じ色のシートが同じようにかかっているので、遠くから見ると、町の模様が変わったように見えた。 ブロック塀は、たいてい倒れていた。四日の間そのままだった。 玄関に、紙が貼ってある家があった。 緑と、黄色と、赤。 父の言っていたやつだ、と栞は思った。赤が貼られた家の前には、車が停まっていて、人が二人、中から段ボールを運び出していた。 道の脇に、家具が積まれていた。タンス、冷蔵庫、割れたガラス戸。誰かが軍手をして、その山に、また一つ加えていた。 公園の入口に、給水車が停まっていた。ポリタンクを持った人の列が、遊具の前まで伸びていた。 コンビニは、開いていた。ガラスが一枚、ベニヤ板になっていた。入口の貼り紙に、大きく「現金のみ」と書いてあった。 栞は、財布の中身を思い出した。「栞」「……え」「さっきから、しゃべってないぞ」 言われて、栞は初めて、車が止まっていることに気づいた。 交差点だった。いつから止まっていたのか、分からなかった。 信号が、青色に光っていた。「電気、戻ったんだね」「うちの地区は昨日だ。水はまだだけどな」 途中、ガソリンスタンドの前を通った。 列が、交差点を二つぶん越えていた。「あれ、何時間かかるかな」「三時間だろうな」 父は、前を見たまま言った。「栞。覚えとけ。ガソリンは、半分になったら入れるんだ。ギリギリになってから入れるんじゃない」「……うん」「俺も、今回それで懲りた」 ◇ 病院の待合には、犬が三匹と、猫が二匹いた。 受付で、飼い主の一人がこう話していた。家は無事だが、水が出ないので、風呂も洗濯もできない。それでも避難所には行かない。犬がいるから。 栞は、その話を聞きながら、思った。 避難所にいる人が、被災した人の全部ではない。 診察までは、二十分待った。 先生は、白衣ではなく、青い上下を着た女の人だった。マスクをして、ペットボトルの水で手を洗っていた。 コレットは、体重が三百グラム減っていた。「脱水があります。皮膚を引っ張ると、戻りが遅い」 先生は、コレットの首の後ろの皮をつまんで、栞に見せた。 つままれた皮が、すぐには戻らなかった。「点滴していきましょう。それと、栄養のあるペーストを出します。指につけて、口の横に塗ってあげてください。舐めるので」「あの、原因は」「ストレスですね」 先生は、あっさりそう言った。「猫は環境の動物なので、場所が変わるだけで食べなくなります。音、匂い、知らない人。今、コレットちゃんにとって全部が知らないものです」「治りますか」「環境が戻れば戻ります。ただ」 先生は、そこで少しだけ言葉を選んだ。「猫が二日から三日食べないと、肝臓に脂肪がたまって、別の病気になります。そうなると入院が必要です。今は、まだ間に合っています」 栞は、うなずいた。 それから、聞いた。「環境って、どうすればいいですか」「静かで、暗くて、狭いところ。あと、いつも同じ人の匂い」 先生は、コレットのキャリーを見た。「そのタオル、家から持ってきたものですか」「はい」「洗わないでくださいね。それが、今のコレットちゃんの家ですから」 ◇ 帰りの車の中で、栞は考えていた。 静かで、暗くて、狭いところ。 渡り廊下は、そのどれでもなかった。 避難所に着いたのは、三時半だった。 栞は、キャリーを渡り廊下のいちばん奥に置いた。壁と柱のあいだで、光の入らない場所だった。 上から、家のタオルをかけた。半分だけ垂らして、前は開けておいた。 水を替えて、ペーストを指につけて、口の横に塗った。 コレットは、舐めなかった。「谷口さん、すみません。ちょっとだけ、見ててもらえますか」「いいわよ。行ってらっしゃい」 栞は、体育館へ走った。 ◇ 四時。 毛布二枚の前に、子どもが十九人いた。 数えたのは、あとになってからだ。そのときは、数える余裕がなかった。 上は小学五年生、下は三歳くらい。年齢の幅が広すぎた。 動ける大人は、栞と西口さんの二人だった。あとは、中学生の姉妹が手伝いに入っていた。 昨日と同じ人数だった。「並んでー!」 西口さんの声が飛んだ。 誰も並ばなかった。 毛布は二枚しかないので、座れない子が周りに立った。立った子が、押し合いになった。 三歳くらいの子が、泣き出した。 中学生の姉のほうが、抱き上げてあやそうとして、その子がもっと泣いた。母親を探しているらしかった。 栞は、母親を探しに走った。 探しているあいだに、後ろで音がした。 ◇ 小学生の男の子が、床に膝をついていた。 押されて、体育館の床に転んだらしい。膝が赤くなって、少しだけ血が出ていた。 その子の母親が、すぐに来た。「もう」 母親は、子どもの膝を見て、それから栞を見た。「大人の人、これだけですか」「……はい」「そうですか」 それだけだった。 怒鳴られたわけではなかった。 怒鳴られたほうが、まだよかったと栞は思った。 ◇ 四時二十分に、栞は紙を剥がした。 十分早かった。「もう終わりー?」 誰かが言ったのが聞こえた。「ごめん」 栞は、振り返って、少し困った顔になって、そう言った。 毛布をたたんで、置いて、体育館の隅に立った。 顔が、熱かった。 昨日、三日ぶりに子どもが笑ったと思って、嬉しかった。あれで何かできた気になっていた。 今日は、人数が四倍になった。それだけで、全部が崩れた。「気にすんな」 西口さんが、毛布の端を持ってくれた。「増えるって言ったろ。俺も、ちょっと甘く見てた」「けがさせました」「膝小僧だ」「でも……」「あんたが謝る相手は、あの子と、あの母ちゃんだけだ。それ以外に謝るな。癖になる」 ◇ 報告に行くと、高梨さんは、書類から顔も上げずに聞いていた。 聞き終わってから、言った。「明日はどうしますか」 これは、質問なのか、それとも、誘導なのか。「……やめたほうがいいと思ってます」 栞は、誘導だと受け取った。半分はそう決めていた。「そうですか」 高梨さんは、そこで初めて顔を上げた。真顔だった。「困るのは子どもだけです。子どもは、困ったと言いに来ませんが」 栞は、黙って聞くしかなかった。「一つ、聞きます。今日、足りなかったのは何ですか」 少しだけ、優しい目になっていることに栞は気づいた。 栞は、その目に向かって、はっきりとした口調で言った。「……大人です。あと、決める人です」 高梨さんは、栞をまっすぐ見た。「今日、あなたは、母親を探しに行って、けがを見て、片づけましたよね」 今日の場面が、頭の中を、早送りした動画のように、一気に駆け抜けた。 あのとき、高梨さんは近くにいなかった。なのに、三つの言葉だけで、出来事を言い当てられた。「……はい」 もっと言うべきことがあったかもしれない。しかし、それしか言えなかった。「四人とも、手が空いていませんでしたね。悪いことじゃないです。目の前に子どもがいれば、そうなります」「ただ、そういうときは、全体が見えている人がいなくなります。誰が悪いという話じゃなくて、役割を決めないまま、四人だけで回すと、そうなるんです」 栞は、メモ帳を出した。 書いた。 人を増やす前に、動かない人を一人作る。役割を決める。 ◇ 五時過ぎ、上着の上に色のついたベストを着た人が二人、体育館の床を回って歩いていた。 保健師さんだった。ベストの背中に、市の名前が入っていた。 一人が、みなみの母親の前でしゃがんでいた。 栞は、離れたところで毛布をたたみながら、聞くともなく聞いていた。 母親が、笑って言っていた。「この子は平気なんです。ほんとに手がかからなくて」 保健師さんは、うなずいて、それから、みなみの顔を覗き込んだ。 しかし、保健師さんは、何も聞かなかった。「今日、お昼は食べられましたか」 母親にそう聞いて、返事を書き留めて、それだけで立ち上がった。 ◇「あの」 栞は、その保健師さんを、通路のところで呼び止めた。 三十代くらいの女の人だった。「さっきの子なんですけど」 それだけで伝わるか分からなかったが、通じる気がして、そう言った。「はい」「ずっと、動かないんです。三日目からずっと。喋らなくて」 保健師さんは、栞の顔を見た。「お知り合いですか?」「いえ。ただ、その…… 私が、子どもが遊ぶ場所を作ってて。誘ってみたんですけど、来なくて」 保健師さんは、少し考えてから、言った。「災害のあと、子どもの反応は二つに分かれます。荒れる子と、止まる子です」 目が、真剣になっていた。「止まる」 栞は、その意味を瞬時に理解できなかった。「動かなくなるの。喋らなくなるし。夜、おねしょが戻る子もいます。全部、めずらしいことではありません」 栞は、メモ帳を出そうとして、やめた。今は、聞いていたかった。「困るのは、止まる子が、褒められることです」「……はい」「困る」と「止まる子」。その二つが耳に残って、栞は、泣きそうな顔になっていた。「いい子ね、手がかからないね、って。それで、大人が安心してしまう」 栞は、早く次の答えが欲しくなって言った。「どうすれば、いいんですか」 保健師さんは、少しだけ笑った。「何もしないでください」「え」 栞は、面食らった。何かしてあげたいと思っていたのに、答えは、正反対だった。「話させようとしない。大丈夫? と聞かない。無理に輪に入れない。あの子は今、自分で自分を守っています。それを引きはがすと、逆に長引きます」 栞は、必死になって、理解しようとした。「……何もしないって、いちばん難しくないですか」 栞のなかで、「何もしない」という言葉だけが繰り返されていた。「難しいです」 保健師さんは、そう言って、うなずいた。「だから、代わりに、同じ時間に同じことをしてあげて欲しいんです。毎日同じ場所で、同じことをする。子どもは、それでだいぶ落ち着きます。何を話したかより、明日も同じことがある。そういうことのほうが効きます」 栞は、そこで、息を吸った。「じゃあ、やめないほうがいいですか」「何をですか」「その……遊ぶ場所です。今日、失敗したんです。子どもにけがをさせてしまいました。だから、もう、やめようと思ってて」 保健師さんは、栞の顔をもう一度見て、それから、しっかりとした目で言った。「続けてください」 目は笑っていたが、真剣だった。「……でも、けがさせました」「明日も同じ時間にあるって、あの子たち、もう知ってますよね」 保健師さんは、そう言って、少し笑った。「それが、いちばん大事なところなので」 ◇ その夜、栞は西口さんのところへ行った。「明日も、やります」「おう」「ただ、変えます」 栞は、メモ帳を開いた。 書いてきたことを、読み上げた。 時間を二つに分ける。四時からは小さい子、四時半からは小学生。毛布は四枚。人数は一回十人まで。名前を紙に書いてもらう。そして、大人を一人、座らせておく。走らない人を一人作る。「その一人、俺だな」「西口さんが動かないと、たぶん誰も笑わないです」「言うようになったな」 西口さんは笑って、それから、真面目な顔になった。「大人はもう二人いる。その一人が、俺のとこに来た。手伝うってさ」「誰ですか」「膝小僧の母ちゃんだ」 ◇ 小さな子どもたちが寝始める頃、栞は渡り廊下に行った。 点滴のあと、コレットは少しだけ動くようになっていた。指につけたペーストを、二回、舐めた。 三回目は、舐めなかった。 それでも、昨日よりは多かった。「どうだった、病院」 谷口さんが、隣でこちらを見て言った。「脱水だって言われました。点滴して、あとはこれを塗ってあげてって、これをいただきました」 栞は、ペーストのチューブを見せた。「二回、舐めました」「そう。よかった」 谷口さんは、それだけ言って、うちわを置いた。「私、明日もここにいるから。コレちゃんも一緒に見ておく」「いいんですか」「二つ抱えると、両方だめになるわよ」 ◇ 体育館に戻ると、畳んだ毛布の上に、折った紙が置いてあった。 チラシで作った、少し形の崩れた鶴だった。羽が片方だけ長い。 誰が置いたのかは、それだけでは、分からなかった。 栞は、それをメモ帳のあいだに挟んだ。 ◇ その夜のメモ。 四日目に知ったこと- 猫は、二日三日食べないと肝臓を壊す。食べないのは、いちばんまずいサイン
- 猫が食べないのは、たいてい環境のせい。静かで、暗くて、狭くて、いつもの匂い
- 家から持ってきたタオルは、洗わない。あれが今の家
- 車のガソリンは、半分になったら入れる
- 子どもの遊び場は、人数ではなく、大人の数で決まる
- 人を増やす前に、動かない人を一人作る。役割を決める
- 災害のあと、子どもは荒れるか、止まるかのどちらか。おねしょが戻るのも普通
- 止まった子は、褒められてしまう
- 「大丈夫?」と聞かない。何もしないで、そばにいる
- 毎日、同じ時間に同じことをする。それがいちばん効く
- 謝る相手を間違えない--- 書き終わって、栞はメモ帳を閉じた。 挟んだ鶴が、少し潰れていた。 明日は四時からだ。毛布を四枚、借りに行かないといけない。 栞は、そこまで考えて、眠った。(第六話につづく)